この7,8年の衰退について
昔あったお店が次々消えていく。
代わって建つのは、マンションかチェーン店だ。新しいお店はどうも利用しづらい。
昔いたおじさん、おばさんが次々消えていく。
繋がりや風習が消えていく。
両親が目に見えて老いていく。
この7,8年で、自分から見える景色が大きく変わった。
10年前を思うと切なさに圧し潰されそうになる。
10年前の自分が決して充実していなかったことは知っている。
後悔はない。
ただ、失って気付かされたことがあまりにも多かった。
形あるものが消えていくこと、衰退していくこと、それ自体が悪いことではない。万物の理だ。
頭ではわかっている。
衰退によって新たな何かが生まれる。新しい何かは、発展拡大し、誰かの大切な思い出となり、これもまた衰退して滅びていくこと。
それでよいのだし、そうしたサイクルに抵抗するでなく、そうかーと思って味わえばよいのだ。
本当にそう思うけれど、実際は悲しいし辛いし打ちひしがれる。抵抗したくなる。
それもまた、良しということなのか。
はー、サッパリサッパリ・・・
『時が経てば』斉藤和義
『時が経てば』という歌を無性に聴きたくなって、斉藤和義のアルバムを借りに行った。ツタヤに。
斉藤和義 時が経てば 歌詞
私はこの歌詞の描写に、とても牧歌的な空気を感じる。
そして斉藤和義氏の純朴さを。
ビルから飛び降りようとする男に、人々やメディアが騒然となって・・・というのが、歌詞のおおまかな物語。
けれど今の日本で、ビルから人が飛び降りる降りないでそれほど大騒ぎにはならないと思う。
夏祭りみたいに野次馬が集まって固唾をのむとか、テレビ各局が生中継するとか、ものすごく非現実的に聞こえる。
古き良き昭和の世界だ。(わからないけど)
そんな歌詞を書いた斉藤和義とその歌声に、とても純朴さを感じるのだ。
最後は『がんばれ、負けるな』である。
でも、それが響くのだ。
NHK 知恵泉「太宰治 その絶望を超えてゆけ」を見て
昨晩寝付けずにTVをつけたら、太宰について語る番組が流れていた。
その中で紹介されていた太宰の逸話で、「学問を修めたものが教養人なのではなく、人のつらさに敏感であるものが教養人なのだ」といった意図の言葉があり、胸を打たれた。
太宰は「優」という一字を好んでいたらしい。人を憂うと書くこの「優」とは、まさに人のつらさを想えることに他ならない、と紹介されていた。
ああー、そうか。自分はこれでよいのかもしれない。
少しだけそう思えた。
西村賢太もこの言葉に救われた思いだと語っていて、その感極まったような表情が印象に残っている。
(久しぶりに西村賢太の姿を見てオオッとも思った。元気そうで何より)
太宰の故郷探訪を記した「津軽」には、育て親であるタケと会って、生まれて初めてかもしれない心の平和を味わった、と書かれている。
「もうどうなってもいい」と心から思えた時に、人は平穏な気持ちを味わえるのかもしれない。
いつか自分も、そんな平和な気持ちになれる日が来るだろうか。
10年くらい前から、「安心したい」という祈りに似た願いを抱き続けている。
太宰のように苦悩の果てに平穏を見出した先人たちに触れるたび、いつかきっと平和な日が来る、まだ信じてみよう、と思える。
それが希望であります。
大学時代、太宰の作品は一通り読んだ。
今は神経症の症状で本を読むことは簡単ではなくなってしまったけれど、またいつか「津軽」を読んでみよう。
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「太宰治 その絶望を超えてゆけ」 https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20180626-31-04471